生い立ちとカサンドル時代
1907年11月6日、パリの15区にあるジャンヌ・アシェット通りで後に20世紀後半のフランスポスター界の巨匠と呼ばれるレイモン・サヴィニャック(Raymond・Savignac)は生まれました。
パリ13区グラシエール街でカフェ・レストランを営むオーヴェルニュ地方出身の両親のもと、1920〜30年代において世界的絵画の街だったパリで幼少期を過ごしました。少年時代のある時期に自転車競技の選手に憧れ夢見ましたが、断念。それから少したって彼は自分に「素描」の才があることに気づき15歳を過ぎた1923年にパリ交通公団にデザイナー兼トレース工として就職しました。庶民階級の出身だったサヴィニャックは早くから働かなくてはならず、美術学校に通うことはできませんでしたが、この頃、夜学に通って工業デザインを学びました。
しかし、間もなくしてサヴィニャックは不況から人員削減の煽りを受けパリ交通公団を解雇されてしまいました。1925年、サヴィニャックは幸いにも広告アニメーションの第一人者であるロベール・ロルタックの事務所を紹介され、就職することになり当時活躍中のルーポ、カルリュ、コラン、さらにカッサンドルといったポスター作家たちの作品の模写に明け暮れる日々を過ごしました。サヴィニャックは後に出版された自伝の中でも話しているように、ロルタックのやり方には馴染めなかったもののこの時期に技術とアイデアを磨きました。
1928年、1年半の兵役を終えてパリに戻って来たサヴィニャックはロルタックの事務所を辞め、いくつかの職を転々とする日々を過ごしていました。当時大流行していたエアブラシの技法が苦手だったサヴィニャックはすっかり自信もなくし、職もなかった1933年に憧れだったあのカッサンドルが働くアリアンス・グラフィック社の門を紹介状も持たず、それまでの仕事をまとめたささやかなポートフォリオだけを抱えて叩きました。
門前払いも覚悟だったであろうサヴィニャックに奇跡が起きました。大作家であるカッサンドルと初対面を果たしたどころかその場で仕事を与えてもらい、さらに臨時の助手として雇ってもらうことになりました。こうしてサヴィニャックのカッサンドルの元での修行が始まりました。それから2年後の1935年にヴェルサイユにある自宅アトリエに移ったカッサンドルの正式な助手になりました。
ヴィユモとの出会いと黄金期
アメリカへと旅立つことになったカッサンドルのもとを離れた1938年までサヴィニャックのカッサンドル修行時代は続き、その後はカッサンドルの推薦もありドレジェール印刷で翌年の1939年、第二次世界大戦に招集されるまで働きました。この戦争により、カッサンドルの影響をどのように脱却し、オリジナルのスタイルをどのように築くのかという課題と向き合っていたサヴィニャックの本当のポスター作家としてのキャリアの始まりを遅らせることになってしまいました。
1940年にマルセル・アンドレア・メルシエ嬢と結婚をし、パリ市内のジルクール通りに39年間、トゥルーヴィルに移るまでここで生活をしました。
パリで行われていたイラスト見本市に数点のデッサンを並べていたサヴィニャックに転機が訪れました。広告プロデューサーのロベール・ゲランがサヴィニャックのデッサンを気に入り、1943年に彼の口添えで彼がアートディレクターを務める広告事業連合(広告コンソーシアム)に入社することになりました。サヴィニャックは1947年に仕事中にチェスをしているところが見つかり解雇されるまで、数多くのポスターを制作しました。働き始めた頃こそ「カッサンドル調」が残っていましたが、働き始めて2年もするとサヴィニャックはオリジナルスタイルを確立し始めました。
突如仕事を失い途方に暮れているサヴィニャックを救ったのは既にポスター作家として活躍していたベルナール・ヴィユモでした。オペラ座近くのダニエル・カサノヴァ通りにあるヴィユモのアトリエに誘われ居候することになり、ヴィユモの提案を受け、自分たちを売り込むためにサヴィニャックは2人で展覧会を開くことにしました。この二人展は1949年5月から20日まで開催され、プレスに絶賛を受け大成功をおさめたのでした。この展覧会告知のポスターを手がけたのはサヴィニャックでふたりの男が「ヴィユモとサヴィニャックのポスター」と描かれた看板を首からぶら下げたものでした。この時ポスターの中のふたりの男の差別化をはかるべく片方に髭を描きました。当時髭などなかったサヴィニャックがこれをきっかけにトレードマークである髭をはやすことになったのは有名な話です。
この展覧会には広告事業連合時代の雇い主だったウジェーヌ・シュレールもやってきました。シュレールは他にもロレアル社やモンサヴォン社を経営する実業家でした。シュレールは「自分のお乳で石けんをつくり出す牝牛」が描かれたポスターの前に立つと、たいへん感動し、直ちにその原画を買い取り1950年にポスターとして印刷しました。しかしこの原画はもともとモンサヴォン社のために描いたもので、お蔵入りになっていたものをこの展覧会のためにサヴィニャックが借り出してきたものでした。そしてサヴィニャックはこのモンサヴォン社のポスターをきっかけに一気に売れっ子ポスター作家の仲間入りをはたしました。サヴィニャックは自伝の中で『わたしは41歳の時にモンサヴォン石けんの牝牛のおっぱいから生まれた』と述べています。
こうしてサヴィニャックは1950年からの『サヴィニャック黄金期』とも呼べる時代へと移っていき、数多くの傑作と呼ぶにふさわしいポスターを次々と生み出していきました。
ブリュナ ビール、ペリエ、トブラーチョコレート、パリ誕生2000年記念ポスター、ピレッリ、チンザノ、トレカ、ジターヌ、オリヴェッティ、ダンロップ、ドップ モンサヴォン、エールフランス、フリジェコ、ダノン、ワゴンリ・クック、ティファール、オモ、アスプロ、ルノー、オレンジーノ、ヨープレイト、ミシュラン、ペプシなどなど多種多様のポスターを制作しました。
1955年、超売れっ子のサヴィニャックにアメリカの広告業界から雑誌「ライフ」のポスター制作の依頼が来ました。広告主と直接仕事をすることが好きな全部自分でやりたい職人気質のサヴィニャックはこの時の代理人である女性エージェントのおかげでアメリカの「ひとつの広告を分業してつくる」現代的なシステムにうんざりしてしまいました。
サヴィニャックと一番長く、多く仕事をしたのがビックです。今ではすっかり定着したビックボールペンのボールの頭をしたキャラクター『BIC BOY』はサヴィニャックのデザインの中から1960年に生まれたものでした。
1970年代に入るとサヴィニャックが苦手としていた「代理店システム」がフランスでも徐々に導入され始め、広告自体もイラストに代わって写真が多用され、サヴィニャックの仕事も減少していきました。そんな受難の時期にサヴィニャックは24点の連作風刺画からなる「貼り紙禁止展」を1971年に開きました。明るくユーモラスなこれまでのサヴィニャック作品とは異なり現代社会を批判するもので、
商品広告以外にも仕事が広がればと考えた「悪あがき」にも似たサヴィニャックの実験でもありましたが大した反響も得られませんでした。それから少し時間がたった1975年にサヴィニャックは自伝を出しています。少年時代からのエピソードと一緒に広告代理店批判が度々登場し、自分の理想とかけ離れていく広告業界への苛立ちが盛り込まれていました。